最近の話

最近、離人症という言葉を知った。

 

僕はここ数年、自分の中身がどこかに行っていなくなった感覚とともに生きている。

数年前、精神を壊したときから、自分の中身が消えて、仕方がなく少し自分に似た人間がその抜け殻を背負っている。今はその、「少し自分に似た人間」の感覚を私が得ているだけで、それが私自身だとは思わない。

自分が生きているという感覚があまりなく、抜け殻状態で、精神を壊す前とは別人格というか(そして今の人格は本来の自分自身ではない気がしている)。

 

その感覚がこの数日で明確化してきたので、それとなく検索をしていたときに離人症という言葉に出会って、この感覚が当てはまるような気がした。

 

あまり簡単に、自分のことを精神疾患だとか、そういうものに当てはめて他人にいいふらしたりするのは好ましくないと自分は思っているので、そう思ったからといってどうというわけではないのだけれど。

 

そのどこかにいってしまった、本来の自分に帰ってきてほしいのだけど、そもそもその考え方そのものがおかしいのかもしれないし、どうしようもない。

 

抜け殻になったまま、思うように動けないし、こんな話他人に理解してもらえるとは思えないから話さないし、何をする気力もない。泥のように過ごしているのがつらい。

本当ならもっと、お金を稼いだり、やりたいことに挑戦したりいろんなことを頑張りたかった。ずっとそう思って生きてきたのに。何もできない。

 

死にたいわけではないのだ。普通のことを普通にできて、やりたいことにも挑戦できる元気があって、頑張って生きられるなら生きていたい。

でも、このままじゃ生きられない。

どうしようもなく苦しい。

自分が生きているという感覚が薄いのに、苦しさを感じるのはおかしい。

離人症とは違うのかもしれない。よくわからない。

病名なんて別に、なんだっていい。付いたって何も変わらないから。

 

もしかしたら、「こんなはずじゃない」という気持ちがそうさせているのかもしれない。

 

自己愛だけが強い、愚かな人間だから。僕は。

力がわかなくて困っている。新たな人間として生きていくのは構わないのに、ちゃんと生きる元気がないから抜け殻なんだ。生きた屍だ。

去年から病院に通って、薬も飲んでいるけど、大して何も変わらない。

 

困ったものだなあ。

 

 

手を差し伸べる覚悟

最後に更新してから、有り得ないほど時間が空きました。なんなら、この記事を途中まで書いてから1ヶ月空けてまた途中から書いたので、おかしなところがあるかもしれませんがご勘弁を。

高校生と名乗りながら、僕は4月から大学生になる。
小学生の頃から少しだけ心理学が好きで、大学で心理学を学ぼうと思っていた。深く傷付いた経験から、同じように苦しむ人間の手助けになれると思った。

医師の診断を受けた訳ではないけれど僕は恐らくHSPで、人の感情をある程度感じられる。相手の状況を察して痛みを理解してあげられる、自分はそういう仕事に向いていると思っていた。
それを知っている友人は「お前は逆に向いていないと思う」と言った。そのときはあまり理解が出来なかった。

あるとき、僕は人に手を差し伸べることの苦しさに気が付いた。
一般的に、病んでいてめんどくさい人(言い方が悪いけれど)の相手をするのは大変だから避ける人が多いと思う。だけどその頃の僕はそう思っていなくて、放っておくこともできなかった。
それに加えて、僕は自分の状態や苦しみについていつも考えていて、特に精神的にやられていたときもあったので、相手の状態を言語化することはある程度容易だった。でもそれが災いのもとだった。
それが相手にとって珍しかったのか、嬉しかったのか、異常に好かれてしまって執着されてしまったことがあった。同じ学校の人だった。
僕は自分の領域に踏み込まれるのが得意ではないし、自分の時間を多く持ちたいタイプだから、執着されることは性に合わなすぎる。
それでも友人との共通の友人であったし、相手にとって数少ない救いの存在であるならと簡単に振り切ることもできなかった。

そしてそのときは来た。
僕とその相手とでは時間割が違っていて、相手の方が早く終わっていた。相手は僕と一緒に帰ろうと僕の授業が終わるまで待っていてくれたようだった。
だけど僕には先に他の約束があって、その約束を無かったことにはできないので、「ごめん、先に約束があるんだ。だから今日は一緒に帰れない。待っててくれたのにごめん」と伝えた。
後日お菓子でも持って謝りに行こうと思っていた。

でも、それが実行されることは無かった。
次の日顔を合わせようと思って会いに行ったとき、その人は明らかに態度が悪かった。
もうダメだ、と思った。今までも思うところはあったが目を瞑っていた。だけどそのときは直感的に終わったと思った。
それから、その人とは関わっていない。

後日聞いた話だが、その人はあのあと僕との共通の友人に僕のありもしないことを悪口として言いまくっていたようだ。異性を引き連れてる…とかだったか?なんだ、引き連れてるって。確かに仲がいい人は多かったかもしれないけれど、そんなことは断じてない。

いくら自分に自信の無い僕が考えても、あのときのことは申し訳ないとは思っているけれど僕が一方的に悪いか?と言われればそんなことはないと思う。
だけど相手にとってそれは大きな裏切りだったんだろう。孤独を感じている人間に手を差し伸べるというのはそういうことなんだろうな。
自分に見向きもしない相手を恨むことはなくても、一度でも手を差し伸べてくれた相手を恨むことは多い。悪い言い方をすればターゲットだ。


それから、僕は人に手を差し伸べることを避けるようになった。もともと自覚が無かっただけで、人の相談を受けているとき僕は相手の痛みを一緒に背負いすぎていて、あまりにも精神的な疲労が大きかった。

「お前には向いていない」という言葉の意味が分かった。

人間関係のイザコザ、痛み、苦しみからなんとか逃れようと走り続けている。
人の悩みもあまり聞けなくなった。あの頃の優しさは自分がある意味未熟だったからこそ持てたもので、そういった点では大人になるというのはこういうことなんだろうと思っている。自分が生きるために、ある程度割り切って自分のために時間を使うことが僕には必要だったのだ。

苦しんでいる人間に手を差し伸べるのは簡単なことではない。きっとみんなそれに多かれ少なかれ気付いていて、実行する人は少ない。

僕もそのサイドの人間になってしまった。
これでよかった、と思う反面、僕が将来救っていたかもしれない人を見捨てているような気がして苦しい気持ちにもなる。

案外、僕みたいな人の気持ちを感じ取りすぎてしまう人間より、割り切って生きられる強い心を持った人とか、人の背中をバーンと押せるような力を持った人とかが向いてたりするのかも。
結局悩んでいる人だってその人を変えられるのはその人自身だけだから、手を差し伸べる側は黙って聞いてあげるか思い切り背中を押すかなんじゃないか、と今は思う。

単純に心理学を学びたい気持ちもあったけど、それもやめて別の勉強をしようとしている。

大丈夫。こんな言葉苦しいときに聞いたって信じられないかもしれないけど、味方は絶対にどこかにいるし、生きてさえいれば大抵のことはどうにかなる。
毎日死のうとしていた僕がこんなことを言えるようになったんだ。大したこともできない僕が。

人として100点満点なんて1度も取れたことないけど、10点でも20点でも1点でも生きてさえいれば道はあるから。

やっとここまで成長してもまだ僕も生きる希望が持てないときはあるし、気分が落ち込んでどうしようもないときとか、何にも出来ないときばっかりだけど、なんだかんだ生きてるんだよな。

あと、世の中でよく言われている言葉に対しては、「綺麗事だし、んなわけないじゃん」ってずっと思ってたけど、意外と世の真理を突いているような気がしてきた。綺麗事は綺麗事かもしれないけど、それも1つの真実だなあって気付けるところまできたんだから上等。

広い目で物事を考えたい。

やらなきゃいけないこと、やりたいこと、たくさんあるけど、頑張りたい。

もう僕に簡単に手を差し伸べることはできないけど、自分の思いをひとりでに書くことはできるから、ここに残す。

大丈夫。生きられるよ。

孤独

自分で思い込んで生み出した孤独。
周りの人間によって作り上げられた孤独。

僕の人生に初めて「病み」が訪れた頃の話。

僕は秘密主義だった。
きっかけも原因も分からないが、気が付いた時にはもう秘密主義の人間が出来上がっていた。
自分のことを他人に知られるだけ損、なんて謎の概念を持ちながら、常に周りの人間に恐怖を抱いて生きていた。
誰かにいじめられたわけでも、ハブられたわけでもなく、ただ一人で勝手に孤独を感じていた。
「自分がいなくても誰も気付かない」
「あの友達には他の友達との世界があって、自分は部外者」
「誰にとっても自分は居なくていい存在」
とんだ自意識過剰。
どうしたの?と声をかけてくれた人がいた。
僕の領域に足を踏み入れようとしてくれた人がいた。
今思えば、あれのどこが孤独だったのか。
しっかり友達に恵まれて、気にかけてもらえて、それで孤独だなんてどう考えても彼らに失礼だ。
その頃は気付けなかったけど。
秘密主義な性格のおかげで、どうしたのと尋ねられても答えることが出来なかった。
「なんでもないよ、大丈夫」
なんとまあ、自意識過剰が好きそうな台詞。
受け入れられていないのは、彼らではなく僕だったのにね。
勝手に一人で逃げて孤独だと思い込んだ馬鹿だ。
あれは僕が生み出した虚実の孤独で、事実ではない。周りの人間が作り上げる孤独とは違う。
今だからそう言える。

高校生にもなって、当時の僕と同じような様子が窺える知り合いはやはりいる。
それらは口にすればするほど、「周りの人間が作り上げる孤独」に近付く。
私は孤独だ〜なんて言われたら、じゃあ自分は何なの?となる人は少なからずいるはずだ。
自分のことを信じていない人間に寄り添うほどの熱量がその相手にあるか。
特に仲のいい友人を除けば、ほとんどの人が当てはまらない質問だと思う。
自分が生み出した虚実の孤独から、人が離れていく。
周りの人間が作り上げる孤独に変わる。
僕だってそうだ。そんなことを言い散らかしている人に寄り添うのに使う精神力は残っていない。
僕が言いたいのは、そんなことになる前に味方の存在に気付いて欲しいこと。
貴方が敵だと思っているその人は実は味方なんじゃないか?
声をかけてくれる人、気にかけてくれる人、友人、家族、赤の他人でも。
まずは自分のことを話してみることから。
よく知らない人間に一方的に自分のことをペチャクチャ喋ろうと思う人は一部を除けばいない。
貴方のことを話してこそ相手も自分のことを話してくれるようになる。
自分で生み出す孤独なんてふわふわしている。
人と話すだけで消え去るくらい曖昧な。
そんなものに負けないで欲しい。

だけど今の僕には、彼らに直接声をかけるほどのエネルギーも、感情を共に背負う精神力もない。
こんな細々としたブログには他人に伝える力はほぼ皆無に等しいが、申し訳程度にここに置いておこうと思う。

自分の話にはオチがないなといつも思う。
締めくくりに困る。
文才ってどこに売ってますか?

捉え方

ずっと家にいると、書くことがない。
数日前過去の話を語ってブログにあげたけれど、あまりにも見苦しかったのでやっぱり削除しました。
いくらろくに誰も見てないからって、何でも語るもんじゃないな…


さて、本題です。
ふと思ったんですよ。
「お前の本音はなんだ?」と言われても、何も出てくる気がしないんですよね。
だからって、何でも正直に本音を言っているわけでもない。
例え僕が表に出している言動が取り繕ったものだったとしてもそれは僕自身のものにかわりないし、何が本当の自分かって言ったら、全部本当の僕なんじゃないかなって。
これって、多分精神的に成長過程の人間がよく悩む「どれが本当の自分か分からない」の答えに近いものだと思うんです。
僕もそう思っていたことがありました。自分を隠して隠して、他人を不機嫌にさせないことだけに集中していた時期。
それが僕の不本意で、「本当はこうしたいんだ」と心では思っていたとしても、表で取り繕っている自分も心の中でそう思っている自分も全部含めて「僕」でいいんじゃないか?と思うわけです。
そもそも他人から見た「僕」は、表で取り繕っている自分、のほうですからね。それを自分じゃないと否定するのは、ただ認めたくないだけなんじゃないかな、と個人的には思います。
だからどう、って話なんですけどね。
それを言っちゃ僕のブログはおしまいなので。

そしてさらに、僕は他人に対して怒りがわかない(イラッとすることはあるけど)タイプなんですが、そういう人と、普通に怒りがわくタイプの人の違いってなんなんでしょうね?
単純に感情の振れ幅の違い?他人に期待をしているかどうか?もっと他の違い?
極端な例で、思い通りにならないとキレるとかだったら、自分が正しいと思ってるのかなとか想像出来るんですけどね。
もっとこう、普通の感覚で怒るっていうのが分からないんですよ。誰かと喧嘩するとしたら僕は怒らないから、一方的に怒られてる感じ。
物事に対して「まぁそういうものか」と受け入れる器があるかどうか、と仮定したとすれば、怒るタイプの人はその器がなくてダメなのかって話になるけれど、そうではないし。
自分の意見を主張出来るかどうか、だとすれば、僕みたいなタイプの人間は主張できないのか?と言われると微妙ですよね。僕は必要な場面なら普通に主張するし。
他人の意見を尊重する?相手の気持ちを考えられる?
考えれば考えるほど色々な仮定が出来るけれど、どれも例外が生まれるんですよね。

「基本の捉え方を間違えているから例外が発生するんだ」という言葉を聞いてから、その言葉が真実かどうかは別としても、物事の核心を捉えるべきだという気持ちがより強く芽生えまして…尚更めんどくさいタイプの人間になってしまいましたね。

最初の本当の自分の話も、捉え方の問題ですよね。
これはあくまで持論で、もっと納得のしやすい他の答えを持っている人もたくさんいるだろうし、僕の話なんて地球から見たミミズみたいなレベルの小さな話だけど、僕みたいな人間の話で少しでも考え方の整理が出来た人が過去にはいたので、一応残しておく価値はあるかなと思いまして、僭越ながら…。
僕が将来何もかも見失って今の考え方も忘れてしまったとしても、読み返せば少しくらいは思い出せるはず。


毎回何の構想もなく思い付きで話してるから、結局自分が何を言いたいのか分からなくなって終わるのちょっとダサいですね。
とりあえず今回は終わりです。

目標

将来の夢、目標。
18年余りの人生で幾度となく聞いた言葉。

僕には、それがありません。
やってみたいことは山ほどあります。
本気で歌を練習してみるとか、ギターを弾けるようになるとか、作曲のノウハウを学ぶとか、絵の練習をするとか、ひたすら小説を読み漁るとか、物語を描いてみるとか。心理学を学ぶとか、ダンスを始めてみるとか、ジムに通って身体を鍛えてみるとか、死ぬ気で勉強するとか、ざっと考えただけでいくらでも出てくる。

中途半端に何でもなんとなく出来てしまう状態で成長したおかげで、もう少し自分は出来る人間だと思ってました。
やればできる、やればできる、そんなこと思ってるうちは出来ないんですよね。だってやってないから。
なのに、自分の力を過信しているから、「もっと上にいきたい!」なんて思って、それでいて上にいくどころかスタート地点にさえいない訳ですよ。「もっと」とか言える立場じゃない。どん底

俗に言う勝ち組みたいな人がテレビに出ているのを見ると、やっぱり彼らはどこかで努力をしているんですよ、一生懸命に。
そんな中で、努力のスタート地点にすら立てていない自分が、そんな人達みたいな人間に成長出来るかって言ったらそんなわけないじゃないですか。
甘ったれんな、って話ですよ。
そんな人達を見て、物凄い劣等感を覚えてしまうんですよね。でもあの人達は絶対に僕みたいな人間に対して優越感なんか覚えていない。レベルの差。僕は人として小さい。

これこそ自分のことしか見えていない中学生みたいな気持ち悪い発想ですけど、僕ほど努力の出来ない人間なんていないんじゃないかと思うくらい、自分の努力の出来なさに呆れています。というか、何も出来ない。
「本当にやりたかったら出来る」って言われると、ああ、なら自分はやりたくないのかって思って余計気分落ち込みますね。僕ってこんな幼稚だったっけ?

どうしたら頑張れるんだろう。いや、よく言いますよね、目標を作れって。些細なことでいいから。
まぁ、その目標がないから困ってる部分もあるとは思うんですけど、世間的によく言われることって結局は真理だったりするから、きっと大事なことなんだろうな。
このまま落ちこぼれていったら本当にやばい。自覚はある。

出来る人間を見てると、憧れる反面、辛いんですよ。まあ、みんなそんなもんか。
劣等感とやるせなさに襲われて、やっぱり自分はこんな人間にはなれない、ダメな人間だって。その程度でダメな人間だったら世の中のかなり大勢がダメな人間だとは思うんですけど、ゴミみたいな自意識のせいでこんな思考になっちゃって。
バカバカしいですね。僕のやりたいことってなんだろう。
このままじゃ、やりたいことどころか出来ることさえ無くなっちゃいますね。いよいよ終わりだ。

今までだって何度も将来の夢を、明確な理由をもって抱いてきたけど、やめた。僕にできること、やりたいことはこれじゃないって。
でもだからといって夢の代替品があるわけでもなく…どうしたらいいんでしょう。
努力が出来るようになりたい。気力を持ちたい。
今はそれだけなんですよね。それが目標じゃ、どう頑張ればいいのって話だし…劣等感、劣等感。
地の底にいます。這い上がる道具も知識もない。僕はこれから道具作りですかね。
僕の人生に転機は訪れるんでしょうか。
逆転満塁ホームランくらいの、何か大きな衝撃があればな。まあ、運以外は全て自分の努力で賄うしかありませんね。

劣等感と戦いつつ、頑張ります

おわり

感情

僕がこの人生で、今のところ最も大きな議題としていること。
「感情をどう扱うべきか?」

僕は、「感情」という存在が嫌いです。
だけど、残念なことに「嫌い」も感情なんですよ。

一時期、無感情になりたい、とだけひたすら考えていた時期がありました。自分の感情を認めるのが辛かった。表に出せば誰かが不快になる、と。
まあ、なんとも精神的に未熟な話ですが。
無感情になることなど不可能と知っておきながら、ただ抑え込むことに徹して、喜びがなければ悲しみもない、それなら喜びなんていらないんだと。

そして環境が変わって、色々あってプライド云々全て崩壊したのち、その思想を持って以降初めて自分の感情を素直に表現しようと思ったとき、上手く出せなかったんです。
素直になる方法が分からないんですよ。特に、喜びみたいなプラスの感情を表現するときなんかは。
僕は友達といるときはどちらかというとエンターテイナーのような気持ちで、笑ってもらえるようにわざとおかしなことを言ったりしてみたりするけど、自分がされる側になると分からなくて。
プレゼントを貰ったときとかも、嬉しいのに、自然に喜んでるさまを見せられなくて。だけど演技するのも申し訳ないから…なんて思ったりしています。
無感情になりたいとか無謀なこと言って、感情を抑え込んだバカの代償ですかね。

他の皆を見てると、豊かでいいなって思うんですよ。はしゃいだり泣いたり、喧嘩したり素直に恋愛したり、何か僕にはないようなものを持っている気がする。
感情ってきっと、人生を豊かにしてくれるんでしょうね。良い意味でも悪い意味でも。
僕はそれを分かっていながら、未だに心の底から受け入れることは出来ていません。表現なんてもっと出来ない。
もっと大人になれたら、自分の感情も他人の感情も、素直に受け入れられるんでしょうか。
どうしようもない感傷を与えられるのが辛くて、何かのコンテンツにどっぷりハマるとか、感動系のものを見るとか、そういうことも意識的に避けちゃったりして、それはさすがに人生損してるかなって思うんですけど、避けずにはいられないんです。

最近はどちらかというと、他人の感情に意識がいきます。特に不安定なもの。
怒りとか悲しみとかやるせなさとか失望とか、色んな感情が渦巻いているのをよく目にする(物理的には見えないけど)んです。
それを制御出来ずに表にバーンと出して、自分の役割放り出して人に迷惑かけちゃう、みたいな人が最近周りに多くて。迷惑かけない人間なんかいないから、ダメなんて言いませんが。
だけどそういうのを見てると、やっぱり感情という存在が忌まわしいものに思えてきて…しばらくは好きになれなさそうです。

多分これからも、感情云々についてはたくさん触れていくことになるだろうな。僕の意識はそこにあることが多いから。
感情を好きになれる日はいつか来るんだろうか…


今回はここまでです。

期待ってなんだ?

最近思うのです。
「期待しなければ落ち込まないよな」と。

多分これ、小学生とか中学生が考えるような超単純なことなんだろうと思います。僕も実際その頃からずっと思っていたから。
でも実行するのって意外と難しかったんですよ。無意識に期待している部分があるというか。だからしばらく忘れていました。
最近、その「期待しない」感覚が分かった気がするので、記しておこうと思います。あらゆる感覚を忘れないうちに残しておきたい。

僕の思う「期待しない」は、おそらく「軽めに失望している」という状態に近いと思うんです。
失望という言葉を使うと、なんとなく落ち込んでいるような、悲しみに暮れているようなイメージになるかもしれませんが、それとも違う。
他人や世の中に対して希望を抱いていない、というのかな。例えば一番仲の良い友達だってこの先ずっと友達で居てくれる限りではないし、今後僕が進むであろう大学や就職先にも良い環境なんてそうそうない。そういう事実を心に留めておいて、良い結果になればラッキーくらいの気持ちでいる感じ。
努力ともまた違う話で、頑張れば結果が出る物事に対して「どうせ報われない」と思っているわけじゃないんです。
結果的に言えば、普段から悲壮感もなく、何か嫌なことがあってもそれほどのショックを受けない感じです。僕はこれ、とても過ごしやすいです。
その代わり心が無の状態の時間が増えたけど。

でも、昨日そういう話を友人としていたら、「つまんなくね?」的なことを言われたわけですよ。
確かにリスクの少ない人生ってそこまで面白くはならないでしょうね。ハイリスクハイリターン、ローリスクローリターンと言うように。
「その考えなら、プラスになる可能性があっても諦めるのか」、そんなことを言われました。
前述の通り、努力とは違う話なので僕にはそういう認識が無かったけど、一般的な「期待しない」とは違うのかな?話しているうちに、期待とはなんなのか分からなくなっちゃいましたね。まあ、良いんです。僕の解釈は大きな大きな母数の中の、たった一つの小さな解釈だから。

僕はこの生き方でいいと思っていたけど、それは僕が安定を求めているからで、安定以上に楽しさを求めている人にはものすごくつまらないことなんだろうな。
自分がしっくりきているからって、相手にとっての答えが同じだとは思わない方がいいですね。


全然関係ない話だけど…このブログ、他人からすればまるで中学生の黒歴史製造ブログのような気持ち悪いものだと思うんですよ、今の僕の思想を言葉に残すってことはどうしてもそうなっちゃうんだろうなって。
でも、それで良いんです。確かに気持ち悪いけど、その時の感覚って何かの形で残さない限り消えてしまう。僕はそれが嫌だから、例え気持ち悪くても載せます。気付けば、過去の自分の方が優れていた部分、今の自分の方が優れていた部分、両方ある。
忘れてしまった過去の良い部分をいつでも呼び覚ませるように…まあ、一生役に立たない可能性もかなりあるんですけどね。「くさい」という目で見てしまったら結果全部そうなんですよ。だから割り切ります。

今回はこれで終わりです。